昨日、大阪社協26号を送っていただきました。昨年9月末に脱稿したものですが、諸事情により昨日送られてきました、有難うございます。多くの方に読んでいただきたいので、ブログに転載させていただきます。
「諦めない、勝利の日まで!」
ニョニョ
■「大阪無償化裁判勝訴の日」
「え? 裁判長、今なんて言った?!」
2017年7月28日11時、大阪地裁202号大法廷内。
一瞬だった。大阪無償化裁判判決の言い渡し!
最後の「…費用は被告の負担とする。」だけが耳に残った。
その瞬間、隣に座っていた長崎さん、大村さんと顔を見合わせた。
「勝ったん?!勝ったんや!ウリハッキョが勝ったんや。」
涙が止まらない。言葉が言葉にならない。
粛然と立っている真っ白なチョゴリ姿の朝高生たちに「イギョッソ、イギョッソ、ウリガ イギョッソ(勝ったの、私たちが勝ったの)」と告げると、202号大法廷内には悲鳴にも似た彼女たちの歓声と泣き声が響き渡った。
そのあとのことはほとんど覚えていない。
傍聴券獲得に外れた私をわざわざ探してくれ、「オンニョさん、行ってきて下さい」と自分の傍聴券を譲ってくれた「火曜行動」の仲間たち! 彼女らに吉報を早く知らせたくて、外で待っているみんなに早く知らせたくて、202号室を出てすぐの階段の上で「正義が勝利しました!」とフェイスブックに投稿している間に、法廷の中にいた人たちはみな外で待っている数百人の仲間たちの所へ駆けつけた。
一足遅れて法廷の外に出てみると、そこはもう歓喜の坩堝(るつぼ)だった。
5年の間、苦楽を共にした仲間たちに早く会いたくて必死に走ったが、抱き合い、肩をたたきあい、握手をし、歓喜にむせぶ数百人の人々の中をかきわけて進むのは容易ではなかった。うれし涙が次から次からあふれ出てくる。会う人ごとに涙でぐしゃぐしゃになった顔で「勝った、勝った」を連発しながら抱擁しあった。何回も「火曜行動」で会っていた教え子やオモニ会の皆さんと目があった途端、どちらからともなく無言で抱き合いただただ泣いた。涙とは嬉しい時ほどとめどなく流れるようだった。
やっと裁判所の入口で「春母(ハルモニ)会」のメンバーたちと会うことができ、互いに肩を叩きあい、手を取り合いながらミニ報告会の行われる北浜の会場へと向かった。
同じ時間、長崎さんや朝鮮学園理事長、丹羽弁護団団長等による記者会見が行われていた。北浜でのミニ報告会では大村さんの司会のもと、藤永先生をはじめ弁護団の方々が次々と駆け付けて来られた。廊下は会場の中に入りきれなかった方々であふれる状態だった。
弁護団の先生方の喜びに満ちた解説を聞き、やっと何が何なのかを知ることができた。
1. 文部科学大臣が原告に対し平成25年2月20日付けでなした本件規則第1条第1項第2号ハに基づく指定をしない旨の処分を取り消す(取消訴訟ー判決 認容)。
*不指定処分の取り消し。
2. 文部科学大臣は原告に対し、大阪朝鮮高級学校について、本件規則1条1項2号ハに基づく指定をせよ(義務付け訴訟ー判決 認容)。
*高校無償化適用の指定義務付け。
3. 訴訟費用は被告の負担とする(判決 認容)。
“ 全面勝訴判決!!”
まるで夢を見ているようだった。1月26日に行われた補助金裁判大阪地裁判決言い渡しの日には、あまりにも理不尽な不当判決に血の涙を流した私達だった。そればかりか9日前に広島地裁で行われた無償化裁判判決でも1月26日と何ら変わらない不当判決が言い渡され怒りに震えていた私達だった。
それがこの日は、朝鮮学園側の請求を全面的に認めた画期的な判決になったのだ。当たり前のことだという方もおられたが、私はただただ勇気をもって判決文を書いて下さった裁判長に感謝したい思いでいっぱいだった。
ミニ報告会ではいろんな方が発言されたが、お子さん二人をウリハッキョに送っている申麗順さんの涙ながらの発言が今も私の胸を躍らせる。
「今まで生きてきた中で、初めて自分が認められたと感じた一瞬でした。先輩たちから受け継いだものをこれからも守っていきたいと思っています。」
無償化連絡会共同代表の藤永先生は「勝ちました! 掛値なしに歴史的な日です。朝鮮学校が裁判で国家に勝利したのは、日本の歴史上ありませんでした。民族教育の権利を司法が認定したのです。まだまだ控訴審もあるでしょうから,頑張っていきましょう」と語った。
(火曜バンド)
■「260回分の火曜日行動の図表を作りながら」
報告会から帰った私は感動に浸る間もなく家で作業を開始した。完全勝利の日、250回を超える「火曜日行動」の記録を図表にまとめようと決心したのだ。
「火曜行動」に初めて参加した日から、写真を撮り続け、その日の行動の様子を記録し、ブログとFBで全国に発信し続けた者として、全ての記録を整理し後世に残すことは神聖な義務であると思ったからだ。
勝訴の日から夏休みの間、240回分のブログを何度も読み返し、一回の「行動」を一行にまとめ、A4用紙10枚分の図表を完成させるのに1か月という日時を費やした。
数字的な統計は取っていなかったため、無償化連絡会の一員であった李さんに連絡し、彼が参加し続けた237回目までの数字的なデーターをいただいた。その後のデーターは姜さんにお願いした。
最初の9回目までは記録がないので、1回目から参加されていた朴さんにお願いして記録を辿った。朴さんが初期のころ手帳に記録して下さったものと、動画に残して下さったものを何十回と見直しながら参加者の確認を行った。どうしても30回目までの回数が日時と合わず一週間ほど走り回ったが、大村さんが2012年度の手帳に記帳して下さっていたので、2012年7月3日は警報が出たため中止、9月4日は在特会の妨害のため中止したことが判明し、無事260回分の図表を仕上げることができた。
(新年を迎えて)
(ハルモニ会、火曜バンド 他 常時参加者の皆さんたち)
■「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジーを刊行して」
図表を仕上げるまでの1か月の間、私の脳裏にはいろんな方々の顔が浮かんだ。
朝鮮学校無償化除外が発表されてから二か月後の2010年6月10日に初めて会った日から交流を深めた京都在住の詩人河津聖恵さん。
79名の日本の詩人とコリアの詩人を網羅し、2週間ほぼ徹夜しながら彼女と共に『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を作り刊行した2010年8月1日!
その本を持って河津さんはもちろん、詩人の市川逸子さん、柴田三吉さんらと共に、文科省に要請に出かけた日々。除外反対アンソロジーの朗読会を企画し、広島朗読会では、今は亡き詩人―御庄博実さん、広島大の崔教授をゲストに迎え、奈良朗読会では歌人の浅川肇さん、エッセイストの朴才瑛さん、東京朗読会では西武の辻井喬さん、映画評論家の四方田犬彦さん等を迎え対談をしていただき、ピアニストの崔善愛さんにピアノ演奏で花を添えていただいたことなどが次から次へと思い起こされた。
2011年3月11日、あまりにも大きな被害をもたらした東日本大震災の後は、私たちの呼びかけに応じてくれた13名の文芸仲間と共に、被害の大きかった東北朝鮮初中級学校を訪ね、慰問と無償化除外反対のためのチャリティコンサートを行ったこと。その次の日、碇ヶ関支所の皆さんの尽力で、夢にまで見た生まれ故郷―青森県平川市碇ヶ関の生地跡を探し当てたこと……。
その年の11月27日に「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジ―」ハングル翻訳版と在日の子どもたちの絵に俳優の権海孝さんがエッセイをつけ出版した『私の心の中の朝鮮学校』の合同「出版記念朗読会」がソウルで開催され、その集いに招待された河津さんと私が、ソウルの会場で自作詩をウリマルで朗読したこと。その次の日、生まれて初めて故郷―済州島を訪ね30年ぶりに両親の墓参りができたことなど、すべてのことが走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
■「火曜日行動と私」
私が火曜行動に参加するようになったのは、火曜行動が始まって2か月後の、ちょうど10回目の火曜日行動の日からだった。
2012年6月16日、北陸のウリハッキョを訪問した帰りの列車の中で河津さんとこれからのことを話し合った。河津さんは福島県の被災地の方々と痛みを分かち合い共に行動する、私は大阪府庁前での「火曜日行動」に参加することを決めた。
2012年6月19日、大雨の降る中、初めて府庁前に立った時の衝撃!
なんと静かで明るい「行動」だろう。みんなが笑顔でたたかっている。道行く人々に笑顔で語りかける行動!未来を、勝利を信じる者たちだけが見せることのできる素晴らしい笑顔!
参加して間もない17回目の火曜行動が行われた日、府庁前に 「海坊主」こと在特会の回し者が現れ、口にするのも汚らしい暴言を吐き続けた。
この「海坊主」の重なる蛮行を目の当たりにしながら、私は「火曜行動」の模様をFBとブログで発信し、広範な人々に知らせなければと思い立った。しばしば右翼の人から嫌がらせのコメントが入り、一時は削除、中断もしたが、負けるものかと奮い立った。9月18日―20回目の「火曜行動」の日から今日まで仲間たちの協力のもと、一度もブログ発信を休むことはなかった。
作成に一か月もかかった記録図表「火曜日行動の足跡」が完成した日、私は1編の詩を書き260回目の火曜行動で朗読した。
「ここに立つ」
ある人は賑やかにアコーディオンを弾き
ある人は楽しげにリコーダーを吹いた
毎週毎週 「火曜日行動」の日に
ある人は歌を作り
ある人はキャンディを分かち合った
辛い時こそ笑いを忘れまいと
ある人は専門学校入学式の日
新調のスーツ姿で府庁前にやって来た
1枚でもビラを配ってから出発したいと
ある人は毎回重いスピーカを運び
その妻は毎日30分も訴え続けた
子どもたちの笑顔を奪わないでと
ある人は夜勤明けの度に
休む間もなくここに駆けつけ
差別反対と訴えビラを配った
ある人は病で痛む足を引きずりながらも
250日間 雄々しく立ち続けた
大雨降る日も 強風吹きすさぶ日も
ある人は49日葬を終えた日
夫の果たせなかった遺志を受け継ぐと
涙をこらえてここに立った
ある人は子どもたちを育てるため
いくつものパートを掛け持ちながらも
ウリハッキョを守ろうと涙で訴えた
ああ、ここは人間の愛があふれる場
民族の違いを越え 心一つに
未来を胸に描く所
幼な子からお年寄りまで
刃より強い笑みを浮かべながら
私たちは立つ 今日もここに立つ
―2017年9月12日―
■「素晴らしい火曜日の仲間たち」
⁂詩では語りつくせなかった火曜行動参加者たちのことをこの機会に記そうと思う。
(総連・女性同盟・教職員等の専従の方々は省いているのでご了承願います。)
◇長崎さんご夫妻
第1回目から今日まで終始一貫「火曜日行動」をリードして下さったお二人。夫の敏和さんは毎回重いスピーカーを自転車で運び、由美子さんは毎回30分以上アピールされた。そもそも火曜日に「火曜行動」を行うことになったのも、敏和さんのお仕事のお休みの日が火曜日だったからだそうだ。由美子さんの最愛の母上の葬儀の日も火曜日だったので、スピーカーを運ぶため敏和さんは大阪に残った。由美子さんは次の火曜行動の日「母は私が朝鮮学校の問題にかかわることを喜び、共に生きることを望んでいました。母の遺志も受け継いでこれからも頑張っていきたいと思います。」と涙ながらに思いを述べられた。「笑顔は刃より強い」と、いつも笑顔で語り続けられている。涙の多い由美子さんは、ウリハッキョに通う子どもたちへの差別を止められず申し訳ないと、アピールの度、何度も何度も涙ぐまれた。由美子さんは「生野のウリハッキョを楽しく支える会」を立ち上げ、日常的にウリハッキョを支援しているばかりか、公開授業などがあるたびに大勢の人々をウリハッキョに案内し、「目で見て心で感じてほしい」と訴え続けられている。
◇大村さんご夫妻
いつも力強い大きな声でのアピールでみんなを引っ張って下さったご夫妻。長崎さん不在の日はもちろんリーダーを務められたばかりか、「城北ハッキョを支える会」を立ち上げ常時運営しながら、会の方々と共に学校給食を9回も準備して下さった。
お二人は枚方から電車を何度も乗り換えながら一番多く火曜行動に参加されたのだが、二人分の交通費は1日3000円もかかった。単純計算しても5年数か月の間に交通費だけで75万円も使われたのである。82回目の日から和子さんが着用されている「火曜エプロン」は友人が応援の一環として作って下さったもので、彼女のトレードマークになっている。
◇館山さんご夫妻
館山さんは初期からずっと参加されている。幼い頃小児麻痺を患いその後遺症に苦しめられながらも、「日本の真の民主主義を勝ち取るためには、朝鮮の子どもたちへの差別を許してはならない」と、痛い体に鞭打ちながら凛と立ち続けるお姿で参加者に大きな力を下さった。100回目、200回目の記念パレードの日は、行進には参加できないからと、一人で府庁前に立ち続けシュプレヒコールを続けて下さった。150回目の火曜行動の前日、ご自宅のお風呂場で転倒され3か月間入院されながらも、見舞客に「火曜行動に行けなくてごめんなさい」とおっしゃっていた。館山さんの入院中は奥さまがずっと参加されたし、ご主人の退院後は欠かさずお二人で参加されている。いつもは穏やかな笑みを絶やさない方だが、理不尽な行為に対しては鉄拳のような力強さで批判をされる方だ。
(館山さん)
◇オモニ会の皆さん
大阪朝高、東大阪中級、北大阪初中級、中大阪初級、東大阪初級、生野初級、大阪第4初級、城北初級、福島初級、南大阪初級、和歌山初級のオモニ会からは地域担当日に合わせ積極的に参加されている。子どもたちをウリハッキョに送るオモニとして、オモニ会の皆さんのアピールは説得力がある。道行く人々の足を止め参加者たちに無限の力をくれた。
ある保護者のオモニは「私は5人の子どもをウリハッキョに送るためいくつものパートを掛け持ちしながら働いています。月20万円の教育費は大変です。それでもウリハッキョに送りたいのは、それだけウリハッキョが素晴らしいからです。」と涙ながらにアピールされた。その日、参加者みんなが涙しながら、「どんなことがあってもウリハッキョを守り抜こう」と誓い合った。オモニ会の皆さんの尽力度は計り知れない。
◇中山、李鉄、方清子、井上(男性)さん
中山さんと李さんは、館山さんと三人でいつも同じ場所に立っているので「イケメン三銃士」と名付けさせていただいた。お二人とも初期のころから参加されている。中山さんは火曜行動などの様子を何度も新聞に投稿して下さった。
方さんと井上さんも初期のころから参加されている。<日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク>の活動として水曜デモにも欠かさず参加されながら、府庁前にも来て下さっている。方さんは2016年2月に「多田謡子反権力・人権賞」を受賞された。
◇田中ひろみさん
初期のころから参加され、自作の歌「朝鮮学校を守ろう」を美しい声で何度も歌って参加者を鼓舞し、府庁前を歩く人々を引きつけた.「朝鮮学校を支える宝塚市民の会」の活動として東日本震災後、支援ハガキを作って販売し、その売上金を継続して東北地方のウリハッキョに送り続けている。5年前からは、夏休みに放射能被害から子どもたちを守るため「福島のウリハッキョの子どもたちの保養キャンプ」を宝塚で開催し皆さんを引っ張って下さっている。
◇古賀さん
火曜バンドのリーダーとして初期のころからアコーディオン演奏で参加者を鼓舞し、道行く人を引きつけている、雨の日も強風の日もアコーディオンの聞こえない日はないほどである。多い日は8人が火曜バンドを務めた。近頃は「統一マダン」やいろんな催しにも招待され演奏をしている。「火曜行動」にはなくてはならない存在である。
◇森本さん
奈良のハングル教室で「火曜行動の歌」を習って心を動かされ、翌日の2013年7月23日、63回目の火曜行動からずっと参加している。65回目からは「三線」を持参し、古賀、木村、森本の三人トリオで4年間演奏を続けてきた。この間火曜行動に関する「短歌」だけでも70作以上創作発表した。娘さんも時々火曜バンドに合流する。
◇池辺、宮川、松尾さんご夫妻
火曜バンドの一員として、不定期だが何回も参加しておられる。池辺さんは67回目の火曜行動に初めて参加され、電子ピアノ持参で演奏を続け、宮川さんは時々バイオリンを弾きながら雰囲気を上げて下さっている。松尾さんご夫妻は、200回目の記念パレードから参加している。ご主人は火曜バンドの一員としていつも鈴を担当している。和子さんは、215回目の火曜行動から写真撮影を担当し、精力的に動いて下さっている。
◇井上(女性)、田中直子さん
井上さんは74回目の火曜行動から参加されたのだが、最近は火曜バンドの一員として毎週、打楽器を持参し演奏を続けている。田中さんは、第1回目に参加した後、時々来られていたが、本格的に参加されるようになったのは今年、森友学園問題が大きく取り上げられるようになってからである。毎回アピールをされ「岩のように」のダンスも披露して下さっている。
◇柴田、申姈瑟さん
二人共若者代表。柴田さんは、唯一の日本の若者である。2015年12月15日に行われた175回目の火曜行動から参加し始め、来るたびにアピールをしてくれる。沖縄の反米闘争と掛け持ちである。申さんは、大阪朝鮮高級学校在学中11回も火曜行動に参加し、そのたびにアピールを行った。朝高卒業後、専門学校の入学式の日にも「1枚でもビラを配ってから入学式に行く」と言って、府庁前に新調のスーツ姿のまま現れ、時間ぎりぎりまでビラを配りアピールをした。和歌山からいつも往復4時間かけて参加し、若者代表として毎回自らの意志でアピールも行っている。オモニ(母親)と東大法学部学生の兄さんも最近参加された。
◇梁鳳順さん
「嫁の代わりに来ました。」と80歳の梁鳳順さんが府庁前に訪れたのは火曜行動75回目の2013年10月22日のことだった。奇しくもその日はご主人が亡くなってから満6か月の日だった。6回目の火曜行動の日から毎回末っ子のウォンサ君を連れて参加していた嫁の崔妙華さんが就職することになったため、ハルモニが代わりに来られたのである。長年教育関係に携わっていたご主人の宋華鐘さんの遺志を継ぎ、雨が降ろうが風が吹こうが、自転車に乗って坂道を上がって参加されてきた。梁さんはもう84歳になられたが、「無理をなさらないで下さい」と言っても「ここに来れば元気になれる。」とおっしゃりながらみんなに勇気を与えて下さっている。
(梁鳳順さん)
(長老同士)
◇金栄子さん
6回目の2012年5月22日から今日まで定期的にずっと参加されている。堺在住の看護師さんなのだが夜勤明けにも家に帰らずそのまま府庁前に来られ、「朝鮮の子どもたちを差別しないで下さい」と会う人ごとに声掛けをしながらビラを渡している。
◇金愛美さん
7回目からほとんど毎回参加している唯一の保護者である。美容師さんだが、時間をやりくりしながら府庁前に駆けつける。26回目の火曜行動の日、自分の想いを始めて詩「芙蓉の花よ」に書き留め、それをきっかけに文芸同(在日本朝鮮文学芸術家同盟)文学部に入部することになった。この間、火曜行動関係だけでも5編の詩を書き発表している。一人娘のミユちゃんも1年生の時から夏休みや春休みに一緒に参加し、自作の作文を府庁前で読み大きな感動を与えてくれた。ミユちゃんは現在6年生になった。愛美さんは、先日行われた東京での全国オモニ会アクションにも代表で参加し、力強いアピールで関東地方の方々にエールを送った。
◇金由夏さん
城北初級学校の保護者の一人。106回目の2014年6月24日と109回目の7月15日に「火曜帽子」をたくさん作って参加者に届けてくれた。冬場には「火曜ティッシュ」を作り、あったかーいコーヒーを持ってきてくれたりした。夏には「火曜うちわ」を作って参加者を励ましてくれた。
◇邵秀玉さん
二人の男の子の保護者だが初級学校の事務を見ながら機会あるごとに参加している。
若くしてご主人(専従だった金学才さん)が急死され哀しみに沈んでいたが、49日葬を終えてすぐに行われた41回目の火曜行動に参加し、「夫の遺志を継ぐ」と涙をこらえ決意された。火曜行動に参加するたび裏門前でビラを配りながら、何度も松井知事と対面している。104、109、129、149回目と府知事にあうたび、「ビラを読んで下さい。」「補助金を交付して下さい。」「子どもたちの夢を奪わないで下さい。」と要請し続けている。
◇金主休、金和美さん
お二人は火曜行動終了時に合唱する「火曜行動の歌」を作曲された。
「君たちが大きくなったら」(金主休作曲)は、59回目の2013年6月から、「この坂を上れば」(金主休作曲)は73回目の同年10月から歌うようになった。
「勝利のその日まで」(金和美作曲)は、集会やオモニ会、そして235回目から火曜行動の最後に歌うようになった。
◇大阪朝鮮歌舞団の皆さん
歌舞団の皆さんは36回目の2013年1月15日から毎回交代で参加している。特に声楽部の李恵子・金和美さんは、来る度歌を歌い火曜行動参加者を励まし、235回目からは最後の合唱の音頭をとってくれている。
◇学生の皆さん
大阪朝高生、東中生、北中生、京都中高生、福島初生、大阪第4初生、中大阪初生、南大阪初生、生野初級生たちは何度も訪れ、ビラを配り、歌を歌い、横断幕を作ってくる。また応援の色紙やカイロやビタミンのアンプルまで持ってきて激励してくれた。
朝大生は夏休みや春休みに大勢来てアピールを積極的にし、みんなを鼓舞してくれた。
◇「春母(ハルモニ)会の皆さん」
初期から火曜行動や裁判傍聴に毎回参加してきた横道昭子、平田アサ子、チョ國順、許玉汝、木村奈保子の5人で自然に結成された。裁判傍聴終了後、同じ方向へ帰る途中にランチを共にし、いろんな意見交換も行う。
「春母(ハルモニ)会」という名称は、「おばあさん会」ではなく、いつも春のような暖かさでみんなを包み支えようという想いを込めて名付けられた。
具体的な行動は、2015年2月10日に東京で行われた無償化連絡会全国大会にハルモニ会からも代表を送ろうということから始まった。「民族教育を守るための闘いはオモニ会だけではなく、昼間動けるハルモニ会も一緒になって行わなければならない」と意見一致を見て、私が大会に参加した。この日を契機に、ブログの内容をハルモニ会で力を合わせて作ろうと提議し、アピールの聞き取り作業を交代ですることなった。2015年4月28日の146回目に横道さんから部分的な聞き取りが始まり、6月23日の153回目から正式に平田、横道、木村が交代でレポートを担当するようになった。
260回目までを総括すると、長老の横道さんが38回、平田さんが35回、木村さんが33回レポートして下さった。184回目から参加した朴玲熙さんもハルモニ会に属し、197回目にレポートをするようになり、3回レポートをしていただいた。陶山さんは254回目からハルモニ会に参加し、258回目からレポートを繋いでくれている。
ハルモニ会の平田さんはこの間、180日分の日記をハングルで書いてみんなに感動を与えた。長老の横道さんは、初期のころは姑さんの介護の合間に駆けつけて下さっていたが、今は毎回参加しいろんな学習資料も提供して下さっている。木村さんは「火曜バンド」も兼任し、時々娘さんも同行させている.
チョ國順さんは初期のころから毎回キャンディを準備され、「参加者に元気になっていただこう」と配達し続けている。夏にはカチ割り氷を用意して下さる。キャンディとカチ割り氷だけでもこの間10万円以上を使っていらっしゃることだろう。感動した二人の方がチョさんのことを書かれた詩は朝鮮新報にも掲載された。
◇木村・平田・横道さんは果物や野菜が田舎から送られてきたり、自宅で季節の野菜が収穫されれば、いつも火曜日の仲間に分けてあげている。みかん、ゴーヤ、胡瓜、すいか等々。
◇その他の方々
前半期に頻繁に参加して下さった方々は永久、永野、有元、横谷、伊藤、中村、津々木、小山、金春花、崔妙華、趙成華、河鳳仙、金哲也さんたち。後半期(2014年以後)に数多く参加されている方々は西山、斎藤、武市、つじ、KCC会館の李、呉洋子、李正恵さん。不定期で継続参加されているのは金昌範、伊関、岡本さん。
◇他地域からも駆けつけて下さった大勢の支援者
東京の服部、西中、長谷川、金日宇夫妻、韓至彦、埼玉の洪さん、群馬の廉数昭夫妻、岐阜の安西玲子、金竜誠さん、静岡の宋一、岡田(半年間)さん、京都の河津聖恵、李元重牧師、李淳明、厳康秀、許牧師、宋基燦、朴錦淑、女性同盟の方々、京都初級・京都第2初・京都中高オモニ会の方々、兵庫の金貴美、李友子、尼崎初中オモニ会、神戸朝高オモニ会の方々、奈良の邵哲珍、岡山の呉信浩、下関の李和淳、徳島の牧師、福岡の文善紀さん、英国人留学生のピーター、在米2世の尹さん、在米の林春植牧師(コンサートを開催し、その収益金50万円を火曜行動にカンパしてくれた。)他多数。
韓国からは孫美姫、尹美香、金福童、キム・ソンミン、労働組合の方々、坂下氏、チョン・ギヒョン、歌手の洪氏、ヒマンナビ24名、挺対協8名、キム・ジスクさんと労組の方々、韓国民主労組の方々。彼らは横断幕やホンギルトン基金を持ってきてくれ力強いアピールで元気をくれた。
(ソンミヒさん)
(長谷川さんを囲んで)
◇取材や撮影に来た団体や個人
コマプレス(朴思柔・朴敦史)、朝日新聞、毎日新聞、朝鮮新報、月間雑誌イオ、NHK、関テレ、韓国MBS、共同通信、金明俊、安海龍、キム・チョルミン、ウォンソク、中村一成、高賛侑、他からも多数。
◇「火曜行動」の期間に亡くなった教育関係の方々
宋華鐘、余日花、金学才、玄哲男、李栄汝さん。(心からご冥福をお祈り申し上げます。)
◇「火曜行動」の間、創作された作品の記録(2017年9月12日まで)
平田アサ子 詩 「”それでも“と”だから“」(1編)ハングル日記(180編)
金宏城 詩 「氷一粒」(1編)⁂朝高1年生の時
金愛美 詩 「芙蓉の花よ」〈他4編〉
許玉汝 詩 「ごめんなさい」〈他24編〉
金主休 曲 「この坂を上れば」〈他1曲〉
金和美 曲 「勝利のその日まで」(1曲)
森本忠記 短歌 (70首)
*2012年4月17日から2017年11月21日までの火曜行動参加者は
延べ11,622名、 手渡したビラは延べ107,970枚。
「火曜行動」1回目から270回目までの統計です。
■「諦めない、勝利の日まで!」
最後になるが、丹羽弁護団団長を始め、この間、無償化裁判や補助金裁判を勝利に導くため常に尽力くださった弁護団の先生方に心から感謝を述べたい。又、李昌受,姜賢、玄順愛さんはじめ、黙々と尽力くださった全ての団体の専従の方々に敬意を表したい。
長くなること自体が良いことではないが、5年半もの間「火曜行動」に毎週参加しながら胸に込み上げてきた疑問の1つは、なぜ日本の友人たちがこんなにも長期間にわたって共に行動しているのかということだった。日本の方々は「朝鮮学校の問題は私達自身の問題だ」、「朝鮮の子どもたちに対する政府の態度は日本の民主主義のバロメータ―だ」といつもおっしゃる。そして朝鮮の子どもたちのために涙を流しながら訴え続けて下さっている。決して誰にでもできることではない。人間としていかに生きることが誇り高い生き方なのかを知っている人だけが、このように考え行動できるのだと思う。
長老の梁鳳順さんはいつもおっしゃる。「私はここに来るまで日本の方々がこんなにも一生懸命共に闘っていることを知らなかった。本当に感激で一杯だ。いくら老いても当事者の私たちがもっと頑張らなくてどうする。」と。私も心からそう思う。
日本政府は高校無償化から朝鮮学校だけを除外したが、私たちの揺るぎない同志愛を決して除外することはできない。すでに私たちは民族の違いや宗教の違い、所属団体の違いをはるかに超え、人間の尊厳を取り戻すための闘いを共に継続しているのだ。
私自身「火曜行動」への参加が、もしも義務感であったり、強制されたものであったなら、こんなにも長い間続けることはできなかったと思う。暑い日も寒い日も熱のある日も膝が痛い日も、この日だけは行かなければと思ったのは、「ウリハッキョがあったから私の人生があった」という想い、「もしもウリハッキョがなかったなら、私はどんな人生を送ったか分からない」という想いからだった。
2010年3月に定年退職し、これからは老後をゆっくり楽しもうかなぁと思っていた私が、7年の間、現役の時よりも忙しくなり、方々走り回ったのは想定外のことだったが、この7年間本当に貴重な体験をさせていただいた。
元来私は日本語で詩やエッセーを書いたりする機会がほとんどなかったのだが、日本政府の許せない行為を目のあたりにし、「日本の方々に訴えるためには日本語で書くしかない」という思いでペンを走らせてきた。
『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』に掲載するため、初めて日本語で書いた詩「ふるさと」。私はこの詩の中で、戦後間もないころ知る人一人いない青森の片田舎で生まれ、引っ越しを繰り返しながら根無し草のように生きていた自分が、ウリハッキョに通う中で自分の国の言葉や歴史を学び、自分の国に対する自負心を持ち、人間の尊厳を取り戻したことについて書いた。私が通い、子どもたちが育ち、孫たちが今日も通うウリハッキョは誰も奪うことのできない心のふるさとなのだと。
その想いが全ての行動の始まりだったと思う。私はもうすぐ古希を迎えるが、私の子どもや愛しい孫たちは、この国でこれからも暮らしていくことだろう。祖国の分断70数年はあまりにも長すぎた。考えれば考えるほど、今のこの民族差別と偏見に満ちた状態をそのまま後世に残すわけにはいかないと思う。
朝日連帯のこの力を誰も揺るがすことはできない。諦めたときが終わりの日であることを参加者はみんな知っている。どんな困難が待ち受けようとも、勝利のその日まで私たちは、私は、立ち続ける!